明日には新元号が発表になるようです。
どうしてだか、興味がわかない。生来のアマノジャクのせいかな?
31年前の1月7日の朝、仕事で出掛けている途中で「昭和天皇崩御」の号外を手にしたときの記憶(映像)は鮮明だ。あろうことか、皇居の近くに居た。
その後のニュースで触れた平成。
新鮮だった。新しい時代が始まるような印象だった。
ちょっと前の、昭和63年12月に二男が生まれた。
若かったせいもあったのだろうが、既にこの頃には勤務先のデザイン会社を辞めフリーのデザイナーとして独立する意志を固めていた。
それだけに、平成という新元号はすんなり心に入ってきたものの、実務的には使いにくかった。
昭和の頃は、元号と西暦が5と0で進んでいくから分かりやすかった。例えば、1975年は昭和50年とか、昭和60年は1985年とか、すぐにひもづいて出てくる。
ところが平成になってからは、これが出てこない。自ずと様々な面で西暦で記入したり覚えたりするようになっていた。
以来、平成生まれの子どもの誕生日は元号で記憶しているけど、それ以外の出来事は自然と西暦での記憶・記録となっていった。サッカーW杯にいたってはハナから西暦だ。今となってはパブリックな情報源がなければ「あれっ、今年って平成○年?」というところまできてしまった。
毎年、カレンダーをデザインする仕事をいただいている。昨年の制作打合せでも自然と「西暦だけでいいですよね?」っていう話しになりすんなり進んだ。
日本に生まれ育った人間としては大切にしたいのはやまやまだが、現実の生活では使いにくくなってしまった元号。
老化が進む脳内では、もはや西暦でしかカウント不可能となってしまった。